〜越前 朝倉氏の研究記録〜

 

門閥の雄〜概要〜朝倉孝景英林    朝倉英林壁書    所見

 

 

■ 所見

 

嗚呼、無念である、義景よしかげは信長の天下統一のための戦略計画で筆頭攻撃目標となり朝倉最後の大名、 男の厄年四十二歳で世をさる事になる。(1573, 8, 20)同友の浅井長政ながまさも信長の妹『お市』をめとり安泰かと思われたが、 信長が越前攻略を始めたため、明日は我が身かと義景と同盟し対戦するが、彼も敢え無く八日後の天正元年八月(1573,8,28)小谷城陥落で自刃する。 同じく同友武田信玄はなぜかその同じ年四月に(1573,4,12)阿智川(現長野県昼神温泉)で伏す。 しかし、嫡子勝頼かつよりの思惑によりとむらいを三年間隠し通し信玄の威光でなんとか領国を維持してきたが、 これも信長の討伐により武田うじは滅亡となる。(1582)。 旧友上杉謙信の消息と言えば、その後に信長を加賀で破ったものの(1577)春日山城(新潟県上越市)で急死(1578)二人の養子の跡目争いで一族崩壊。 同盟の斎藤龍興たつおきに至っては道三の孫と言うだけだった、竹中半兵衛と言う家臣がいた、知謀の将と言う男で、 さすがさっさと龍興から去って、信長に仕え秀吉の参謀に までなったが若死にしている、美濃三衆(稲葉一鉄、 氏家卜全うじいえぽくぜん、安藤守就もりなり)も知らないうちに離反、信長の言いなりにされてしまった。 気の毒なもので、龍興も若かった、刀禰坂で討ち死にしたのは二十五才、斎藤家もここで消滅する。 この時、長井隼人と言う美濃関の城主がいた、長井家は道三時代からの付き合いで人情絡みもあり、 俺の主は龍興しかいない何がなんでも稲葉城は守らねばと言う男だ ったが、刀禰坂以降行方知れずとなっている。 しかし、不思議なことに一人無名の男がいた、隼人の家臣大嶋鵜八(後に信長が雲八と呼ぶ)である、彼はなかなかの血すじで先祖は新田義貞に従い、 尊氏討伐の侍大将で名を残している。しかし、所詮戦乱の世、実力主義の時代鵜八そのような事おくびににも出さない。 この男を知っているのは精々上司の隼人くらい、律義で堅物六尺を越える大柄な男で弓の名手と言うが名までは。 勿論、朝倉の勢力下にあった美濃地域であるが義景など知る由もない。下位から上位には何の承諾の必要もなく師とあがめる事ができ、 一挙一動はもとより、思想まで似るもので、似てこそ主従と言うものである、夫婦めおとの契りは三世で切れるが、 主従の結紐けっちゅうは永久と言う。親方が稲葉城は守って見せると言えばそうするより他無い頑固一徹な男。 なぜこの男を信長が拾い上げたか。信長の情報戦略の一手法として、照準を狙い定めたら腹心を狙えという、侵略の手法は攻撃と猜疑心以外に無いと言うが、 この手法陽明学学者沢彦たくげん(井の口と稲葉城を岐阜と改名した和尚)の直伝というがはたして。 大嶋雲八光義、関藩藩主となるが決して長井家、斎藤家、朝倉家から受けた恩遇は忘れてはいない、英林の家法を貴び、 斎藤、長井氏の恚恨いこんを『夫子の道は忠恕のみ』(大嶋家家訓、家康公より忠志な男と褒め称えられ 忠恕と答辞したと伝説)と涙で拭い去り、あの奇才と言われた信長にも仕え、秀吉には大きく期待を受け摂津で毛利の守備に赴き、 関ヶ原の戦いも、別名『豊臣狩り』とも言われ、大半ここで振いにかかるが、希にも兄弟東西に別れての戦であったが全員無事で徳川幕府の仕える。 長男関藩主、次男川辺、その分家加治田、三男迫間で旗本と、末子は伯耆城(鳥取)で家老職、長女は元祖槍術大嶋古流吉綱の母であり、 次女は十八で尾張前野家の雄成殿に嫁ぐが殿は無念にも関ケ原で鉄砲に因る戦死、 彼は織田側近の森勘解由かげゆうの孫であってこれには少し訳がある。 この祖父のさいが才女『あぐい』殿である、前野家の一人娘で一歩も外へ出たことがないと言う、 勘解由は止むを得ず森の名字を付けたまま前野家にいる、その『あぐい殿』が溺愛した孫の二代目勘解由雄成が戦死と聞い その落胆ぶりは見てはいられないが、嫁(雲八の娘)の気立ての良さでなんとか救われている。ここは前野千代女が綴った 『武功夜話』乱世の様を克明に記録した大作で伊勢湾台風の余波で発見され貴重な史実、 堺屋太一らが絶賛一躍脚光を浴びた名家であるが残念にも慶長十四年(1609)名家は消えている、切支丹弾圧に因るものである。 義景が大野六坊賢松寺に散ってから約三百年経過、慶応三年大政奉還、徳川が政権を返上し(1867)翌明治元年となる。 同三年開通予定の鉄道工事が始まり大嶋備後守、脇坂淡路守邸(老中外事官)周辺は新橋駅となってしまった。 織豊時代からここまで激動を乗り越え系譜が継続している武将は少なくない、淡路守も浅井氏に仕えた近江の出身で同じような経歴、 稲葉一鉄も、斎藤から信長に鞍替えしたのは周知で、本能寺の直後から親方が居ない事にうわつき、美濃一帯悪政を下したり、 あの苦楽を共にした安藤守就を何故か滅ぼしてしまうなどで秀吉に嫌われ終りかなと思ったら、長男貞道が優れ者だった、 郡上八幡の城主になり関ヶ原では尾張美濃の武将が多く西軍だったため開戦直前まで待ち東軍につき軍功を上げた。 一鉄の孫養子の正成も凄い男である。秀吉の重臣であり小早川秀秋につき作戦本部長となり開戦と同時に若い秀秋(当時十八才)を説得、 石田の差し金で越前に移封されたと誇張、作戦を変更させ直前の寝返りと今でも汚名がついているが東軍の勝因を作った、 そのときの事実上の軍配指揮官であった、彼の妻君さいくん春日局かすがのつぽねでこれまた大変。 三代将軍家光の乳母めのととは知られているが、正成の四子を産んでさっさと大奥入り彼女の父は 斎藤利三としみつで本能寺の変の企画立案者、母は稲葉通明の娘、大奥の統率は無論の事『掟』なるを制定、 女子のことはすべて局の沙汰するところと言う決定権をもちなにせ将軍家康をも操ったと言う、世嗣せいしの決定、 つまり天子のあと継ぎの事まで影響力を及ばせた才女である、将軍家光の父は二代将軍秀忠であるが母は絶世の美女、 悲運の男浅井長政の娘『江与えよ殿』であるから歴史とはこの様なものである。 大嶋家古文状によると『大権現台命日光義が忠志常々』略『御感被思召依之豊後國臼杵之城二可居哉之由』とあり訳文すると、 (家康よりの親書で、この度の戦には良く働いてくれた、よって戦功により臼杵城主を勧めるがいかがか。雲八光義遠方の為上司本田正純公をへて断る。 他に何なりと申せ、しかれば関は生国出来ればこの近辺で願所望す。ならば都合の良き分にせよ)まったく欲のない話で、 この臼杵を(大分県)一鉄の息子、即ち郡上八幡城主貞道が五万石で頂戴することになった。雲八と言えば関と摂津合わせて 『一万八千石で充分で御座います』と言うわけである。折角にも家康公が欲しいだけ取れと言うのここまで律義とは、 知行ちぎょうは多ければそれなりの苦労はあって自らの意に反し幕府の都合で改易かいえき減封げんぽう国替くにがえ等は時によって余儀無くされるものである。 参勤、信長は安土に服属武将を頻繁に呼び付けたし、秀吉は大坂城や伏見に諸候の家族を強制的に住まわせ領国と行き来させる、 世に言う参勤交替制の原形でこれには皆懲りごりである、関ケ原ではこれにより散々な目にあう。 知行で一番苦労するのが耕作民百姓、つまり、内高と表高の差が大きければ大きいほど大名は潤うが(内高=新田開発及び増産、 表高=幕府の公認検地による収穫高)いずれどちらを取っても下級役人と農民は苦労する。それらの事情を理由としてか否やか、 後に大嶋家は俸禄ほうろくを四実子に分封ぶんぽう直参じきさん旗本となる。 人の能力は識見の広さだと言う、これは師と崇める人物像が自身の周辺にいるのか、いないのかでその広さが決定し、 自身の人格形成にも大きく影響を及ぼすものである。識見とは物の是非善悪、付加と負、右顧左眄うこさべん、 天と地の判断と決定で、増強、増大のみを言うのではない。今日でも、旧主を慕い偲んでか、はたまた英林の理念の無意識の伝心か、 摂津(豊中市)に行けば洲到沚すどうしの『大嶋のお殿様』を知らない者はいないし。関においてはやはり、 雲八が朝倉を崇拝した名残か、代表的な地名、学校名、町名、企業の名号に朝倉、安桜あさくらがやたら多く 愛称されているのも一つの表現かもしれぬ。時は巡り、平成14年4月28日、優美な『ピアノコンサートと昔語り加治田の里』が開催された、 フィナーレは『ふるさと』の大合唱であった、制作スタッフはそれぞれ目頭を熱くし感激に胸を詰まらせている。 あちこちでは再開を誓う握手が互いにされている。信長の奇襲、美濃攻めは鬼門(清洲城から見て)を狙えと 加治田(現岐阜県富加町)へ集中攻撃をかけた、斎藤、長井軍は何としてでも守らねばと抵抗、この周辺一帯は修羅場と化してしまった、 これは永禄十年初秋であった。しかし、急襲ではない、それより八年前永禄二年(1559)に美濃の入り口、 宇留間(鵜沼)城主大沢にその主命の旨を伝えているし、同四年州之俣(墨俣)では土塁工事に着工、関の長井の兵力は五千四百有余と推測し、 実際中美濃なかみのに残留しているのは半数以下、後は稲葉、 州之俣へ仕掛けに移動とここまで割りと長期に且つ正確に読んだ作戦を立てている。 それから435年の歳月が流れ春爛漫、桜こそ盛りを越えたものの麗らかな春真っ 直中で物静かないにしえの里に、 何かもう一つ静けさがあるこのあたり。しくもこの場所でこの様な会が開催できるとはだれしもが 夢々想像できなかったであろう。この古戦場跡から突如『チャイコフスキーの花のワルツ』が連弾で響いてくる。 しかも県下最古の造り酒屋、松井屋酒造の蔵からである。何と見事にこの里と調和しているではないか、 古い酒蔵さかぐらからかもし出す甘酸っぱい香りと、グランドピアノの旋律がどの様に調和したとは説明しにくいが、 観衆の五感を揺さぶり、この歴史ある古い里をも巻き込んでしまったことには違いない。 この会の前半は、加治田の旧領主大嶋義保の末孫巨島おおしまいと殿(静岡県引佐高校講師)による加治田の昔話で花ひらき、 明治以降の武家の変化などを歴史書の裏側から見た逸話いつわなど興味深い講話があり明治四年の廃藩以来の帰郷であった。 また、後半は大嶋家直系32代末孫ピアニストで著名な大嶋樹美江女史と川合見幸姉妹による合同演奏で観客は うっとりとせざるを得ない状況に浸っていた、無論、演奏の内容が優れている事は言うまでもないが、 酒造所の古い木造建築の音の吸収と反響のバランスが解け合い、それは一流のコンサートホールに匹敵する感覚であったと 大勢の観衆から喝采を浴びたからである。 しかし、顧みれば朝倉一系一族も幾度となく深い谷底に蹴落けおとされ永い屈辱の日々もあったが それを自力で這い上がり今世につないでいる、その秘訣はやはりそうさせる力量の遺伝子を夫々が持っているのではないか。 この力量とは朝倉と一時代を背景に苦難の道を歩み共に辛酸を味わった者のみに与えられた因子ではなかろうか。 我が萬世一系一族は将来においてたとえ困難な境遇に陥っても、英林の理念が理解出来る限り先は安心くだされ。 信長の鬼門攻めを発端に戦渦に巻き込まれたこの地は元は穏やかな地であったが美濃を落とすにはここへ来ると察知した長井と加治田の佐藤、 堂洞の岸勘解由かげゆうが三国同盟不可侵を結ぶがこれが悲劇を生むことになる。巧みな信長の戦略にかかり結果、 佐藤紀伊守の令媛れいえん緑姫を岸は盟約破りと生けにえと言う悲劇にし、嫡子は戦死させてしまう。 やがて岸も追い詰められ、吾が息子の討死にガックリと肩を落とすが、その背後で母は高笑いしたという。 やはりここでも女性は強い、『先立つもしばし残るも同じ道此の世の暇を曙の空』と辞世を残し自刃、それを見送り勘解由も妻の後を追ったと言う。 その後、加治田は大嶋家家領となり、以前のように静けさを取り戻し穏やかな里となった。 耳を澄ますとかすかかに聞こえる川浦川のせせらぎ、龍福寺の山鳩の泣き声が聞こえたりして心和なごませてくれている。

 

晩秋

 

 

この記念すべき維新以来の集合に遠来より出席願った、九州大学文学部上野洋三教授、金城学院大学文学部神作研一助教授、 京都赤十字病院巨島文子医学博士(加治田大嶋11代末孫)の諸氏には深く感謝を致します。 また、富加町史編纂委員中島勝国氏の資料の提供、松井屋酒造酒向嘉彦氏の献身的な協力をはじめ多くの方々に理解を頂いたこと合わせて御礼申し上げます。

 

朝倉一系一族 古文訳と稿責 後藤正敏

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