〜越前 朝倉氏の研究記録〜

 

門閥の雄〜概要〜朝倉孝景英林    朝倉英林壁書    所見

 

 

■ 朝倉英林壁書

古文語訳にあたり英林の理念を推理しその意思を優先した為直訳ではなく推測の部分があります

 

一、於朝倉家、不可定宿老しゅくろう其身之器用可従忠節事ちゅうせつにしたがうべき

『朝倉家に於いては、世襲制度を否定し新しい人材の登用を唱え、常に家と人の為を考え、真心をもって尽くすべきである事を提唱する』

*壁書

孝景が子の氏景に残したとされる一書で文明三年の頃(1471-1481)の制定といわれる、 同様それより約百年前に建武之式目という法令で建武三年(1336)に幕府が十七個条で制定している。 内容の第一条は、近年、皆々が都を鎌倉から京に移せというが、その事よりも法理、政道を正すべきではなかろうかと言う。 これを比べるに、国家と家法との違いはあるが、内容は式目以上のもので英林独自の法曹学で、分国法を基準に民への心遣い、 治国政策、主君の心得を示した萬世一系合理主義の基本教育書である。

*宿老を定めず

当初の原文は高老となっている、長老を永く職につかせず若い人材と交替の意。

 

一、代々持来などとて、団扇うちわならびに奉行職預けらるまじき事、

『先代からの申し送りなどで、武将とか奉行要職の依頼などがあっても引き受けたりしてはいけない、縁故関係のつながりは避けるべきである』

*団扇

うちわとは、軍配団扇を意味し実戦の武将という意。

*奉行

うけたまわりを行うという意、上位者の命を受け行事の執行を行う。

*まじ

否定的な推量意志 まじから=未然。まじく、かり=連用。まじ=終止。まじき、かる=連体。まじけれ=巳然。

 

一、天下雖為静謐てんかせいひったりといえども遠近之國々に目付けを置、 所々之行跡を被聞候きかれそうろうはん儀、専一之事せんいつのこと

『世間は平穏無事な様であるが、遠近諸国へは監視を怠らず、情報を聞き取る事にひたすら努力せよ、慢心を避け、警戒の心を常にもつべきである』

*雖

言えども、そうだとしても、

*静謐

静かでひっそりとしている事

 

一、名作之かたなさのみ被好このまれまじく候、其故そのゆえは、 万疋之太刀まんびきのたち為持共もたせるとも百疋之鑓百挺ひゃっぴきのやりひゃくちょう には勝るまじく

候、百疋之鑓百挺求、百人に為持侯もたせそうらはば一方いつほう可禦事ふせぐぺきのこと

『名刀を好み自慢するな、それは、一人に高価な刀を持たせても、槍百丁には勝てる筈がない、 高価な名刀の代金で百挺の槍と百人の兵士を雇う事ができる、そうすれば他方から干渉もされず、 防御する事が出来るではないか、それを名刀一振りで出来るというのか』

*万疋

一疋は貨幣単位で十文、当時、他の史記録で、『たかが六、七千疋の借財に太刀七振りも預けたのが しゃくでたまらぬ』と言う。所謂いわゆる高価という意。

 

一、四座よざ申楽切々呼下さるがくせつせつよびくだし見物被好間鋪候けんぶつこのまれまじくそうろう以其価そのあたいをもち、 國之申楽之器用ならんを為上洛じょうらくさせ

仕舞しまいを習はせ候者そうらわば後代迄可然歟こうだいまでしかるべきか其上そのうえ城内に於、夜能よのう 被好このまれまじき事。

『多くの人が集り、能を聞き入るのも結構であるが、都から呼び寄せてまで演じさせるものではない。 ならば、国の中から申楽に向くものを都へ行かせ、しぐさを習わせ演ずれば結構ではないか、 ただ、費用のかかる夜能は好ましくないから止めた方がよい』

*四座之申楽

満席の能で中世の即興で滑稽こっけいな語りと、模写芸に唐の散楽が加味されたもので、 近世になって能楽と狂言に分離する、(現岐阜県美濃市の俄かと言う語りがあるがそれに伝承されたのでは

 

一、侍之役さむらいのやくなりとて、伊達白川だてしらかわ 江立使者候ししゃをたてそうらいてて、良馬よきうま鷹被求間鋪候もとめられまじくそうろう、自然他所より

到来候者尤候とうらいそうろうはもっともにそうろう、 其も三個年すぐればば、他家江被送おくらるべし永持仕候得者ながくもちつかまつりそうらへば必後悔出来候事しゅったいそうろうこと

『例えば武将と言う事肩書きで、陸奥の国、伊達白川あたりの、名馬、鷹などを求めに行かせるのはいかがかものか、 常々、節義と警戒心を忘れてはならない、また、理由なく他所からきた者は不用心で、三年も預かれば早々に他国へ送るべきであり、 永く置けば必ず何かが起き後悔することになる』

*伊達白川

奥州全体を言う、陸前、磐城、現宮城県仙台及び福島県白河、当時、繁栄していた東山道の果てまでという意

*自然

おのずから、自分から、

 

一、朝倉名字之うちを始、年始之出仕之上着しゅっしのうわぎ可為布子ぬのこたるべしならび各同名定紋おのどうみょうじょうもん可被為付つけさせらるべし分限有之ぶんげんこれあり

とて、衣装を結構せられ候者そうらわぱ國端くにのはしに在庄之侍は 花麗かれいに恐れ、貧乏之姿にて出悪でにくしなどとて構虚病けびょうをかまへ、 一年不出いでず、二年三年出仕不者しゅつしつかまつなざれば後々者のちのちは、朝倉が前へ祗候之輩可少事しこうのともがらすくなかるべき

『朝倉一族に申す、年始の挨拶だけは欠かすな、質素な木綿の綿入れで良い、それぞれ定紋を付けるがよし。 中にはすこしばかり羽振りが良いと言って結構な衣装など整える者もいるが、田舎に住む武将らは、その派手な事を嫌い、 貧乏姿で出にくいと、一年、二年三年と仮病けびょうを装うかもしれぬ。ついては、その者達より釈明の言葉など聞きたく無く、 そのような事を言わせてもならぬものである』

*布子

木綿の綿入れで寒季に着る質素なもの、

*定紋

朝倉氏の家紋は三盛り木瓜もっこう紋(瓜を輪切りにした形)で元来唐の宮廷の装飾模様であった。 わが宮廷でもそれを踏襲とうしゅうし、家具、牛車などに家紋として採用した。 公家大徳寺家と姻戚のあった朝倉家は平安中期(1000年頃)に氏族の印として下賜げしされている。 木瓜紋は織田家で名高いが信長の先祖が(四代前)、門閥を重んじ朝倉家に紋章の譲受を懇願し、姻戚を申し出て一つ木瓜紋を贈与されている。 (当時紋章が無い家系は全てに於いて席外扱い)皮肉にもその後、信長の時代で織田、朝倉家は恩讐の仲となってしまう。 朝倉家最後の大名義景は刀禰坂で敗れ、信長に大野六坊まで追い込まれ自刃をさせられてしまった。 残された一族と一万余の市民は、信長の軍勢により百余年にわたり繁栄した一乗谷と共に跡形もなく焼き討ちされ一切を失うことになる。 いかに戦国の世とはいえ民衆を巻き込んだ、あまりにも惨むごい仕打ちではなかろうか。 地中から掘出された遺物から判断するに食器類からは食事中の急襲であったのか食べかけを残したまま出土している、 また、武家屋敷からは利器類が一切出て来ない理由などは、数箇所に火を放ち金品など根こそぎ持ち去る手段であったのか。 しかし、閥閲ばつえつのなかった織田家も木瓜紋を頂戴するとき、朝倉家に何と言ってひぎまずいたものか。 織田は末代下僕としてお仕え申す所存で御座いますとか。因果というのは恐ろしいもので、 一乗谷を焼き払って(1573)信長天下を取ったと思いきや、それも束の間9年後(1582)に明智とやらに 本能寺に乗り込まれ火攻めに会い悲しくも哀れな憂目をみる。 万事、この様な理不尽な計らい事すると必ずこの身に振り返ってくると言う事で身を持っての立証だと思う。 理由は定かではないが以来、朝倉一族においてこの木瓜紋を使用していない家系もある。 清流一乗谷川はその様な人間の表裏などまったく関知せず、自然の摂理に心ゆだね、のどかな山間を以来四百幾年流れ続けている。 ただ、閭門下城戸の巨岩群達だけは、昼夜を問わず今以て一人の通行人さえ見落とすことなくそそり立ち、朝倉一族への忠節を尽くしている。

分限ぶんげん

資産があって裕福な者を言う、

祗候しこう

しきたりを破ったことに対する弁明、

 

一、其身之成見悪候共そのみのなりみにくくそうろうともなげたらん者には、 可有情なさけあるべし、又臆病おくぴょうなれども、 用義押立ようぎおしたてよきは、

共使之用ともづかいのよう立候たちそうろう両方闕他りょうほうかけたらんは、 所領之費歟しょりょうのついえか

『配下におく者として、身なり風采が悪くとも、律義りちぎで気立てが良き者には、それなりの惜しまぬ情けを掛けよ。 また、控え目ではあるが、諸事の判断、推量が良い者は、国のために共に仕えさせるべし、よって、両方に欠けたるは只の浪費で使い者にならない』

所領しょりょう

与えた田畑、山林

文末の疑問反問体

 

一、奉公之者ほうこうのものと無奉公之族ほうこうなきにやから同事に会尺おなじことにあしなはれ候者そうらわば忠節之半漢ちゅうせつのはんかんいかで可有候哉あるべきそうろうや

『公のために働く者と、そうでないものと同じ様に扱ってはならない、主君のために働いている者の立場を十分理解をすべきである』

*半漢

天馬半漢たりの意で帝に仕え国の空を勢い良く駆け巡る意、

 

一、さのみ事闕候ことかきそうらはずば、他國之牢人ろうにんなどに、右筆うひつされまじき事、

『一概には言えぬが、事を欠いてはならぬといって、他国の牢人などに代書などの依頼は以ての他である』

*さのみ

一概には言えぬが(後続文を否定)

*牢人

律令制で戸籍に記載された本貫の地を離れ、納税の義務をのがれ主をもたない武士。(科人とはこの時代別)

*右筆

武家に勤める職名で代書書記官

 

一、僧俗共そうぞくともに、一手に芸能あらん者、他国江被越間鋪候たこくへこされまじくそうろう、 但、其身之能そのみののうまんじ、無奉公之輩ほうこうなきのともがら

は、可無曲事きょくなかるべきのと

『僧と俗人を一手に出来る才能のあるものは、他国へ行かせてはならぬ、ただし自分の才能を自慢したり、公に仕えないものは自由にさせよ』

 

一、可勝合戦かつべきかっせん可執城責等之時とるべきしろぜめとうのとき選吉日きちじつをえらび調方角ほうがくをととえ遁時日事口借候ときひをのがすことくちおしく如何様之いかよう吉日なりとも、

大風に船をいだし、猛勢に無人にて向は、其曲有そのきょくありまじく候、 雖為悪日悪方あくにちあくほうたりといえど、見合、諸神殊しょしんことには八幡摩利支天に、 別而致精誠べっしてしょうじょういたし励軍功候ぐんこうをはげみそうらはば、 勝利可為案中事しょうりあんのうちたるべきのこと

『勝てる戦、落とせる城責めの時に日柄、方角を選び機を逃してはならない、また、どの様な吉日でも大風に船を出したり、 多勢に無勢の戦など間違ったことはしてはならない。たとえ、日柄、方角が悪くても皆で神に願い、 それぞれの者が考えた方策を一心にし、たてた手柄を励ませば必ず勝利は立案どうりになるだろう』

別而致べっしていたす

わかちて致す、それぞれ別々に

 

一、為器用正路輩きようせいろたるともがらに申付、年中三ケ度計どばかり為遵行領分りょうぶんをじゅくぎょうさせ土民百姓唱どみんひやくしょうのとなえを聞、 可被改其沙汰そのさたをあらためらるべし、自然

少々ハ形を引替候て、自身も可然候事しかるべきそうろうのこと

『利発な配下の者に言っておく年三回位は領内の巡回を申し付け、民衆の訴えを聞き政治を改めよ。また、責任あるものは、 みずからなり姿を変え、自ら国内を見回り、偽りのない意見を聞き国政に反映させよ』

 

一、朝倉が館之外やかたのほか、国内に城郭を為構かまえさせまじく候、 惣別分限そうべつぶんげんあらん者、一乗谷へ引越、郷村には

代官計可被置事ばかりおかるべきのこと

『朝倉の城以外、領内に城を作ってはならない。して、管領地には代官などを置き、羽振りの良き者は一乗谷に引っ越して来るがいい』

*が

格助詞の『の』と同意

 

一、伽藍仏閣ならびに町屋等巡検之時は、少々馬をとどめ見悪みにくきをば見にくきと云、よきをばよしと言はれ

候者そうらわば不致者いたらざるものも、御詞おことばかかりたるなどとて、しきをばなおしし、よきをば、 弥可嗜候いよいよたしなむべくそうろう造作ぞうさく不入いれず、 国を見事に持成もちなすも、国主の心づかひに寄るべく候事そうろうこと

『寺や町内を見回るとき、たまには馬を止め見苦しい所は見苦しいと言い、また、良い所は良いとほめたたえれば、 いたらない者は主が言葉を掛けてくれたと言って悪いところを改め、良い所は益々良くするであろう。 町を良くするのも、国を良くするのも大した造作は要らない、国主の心掛け次第である』

*伽藍

寺院

 

一、諸沙汰直奏之時しょさたじきそうのとき理非りひ少も被枉まげられまじく候、 もし役人致私曲之由被聞及しきょくをいたすのよしききおよばれ在状分明ざいじょうぶんみょうならば、

負方可為同科候まけかたとおなじとがとがたるぺくそうろう、 諸事内輪を、懃厚きんこうに沙汰いたし候得ば、他国之悪党如何様いかようにあつかいたり共不苦候ともくるしからず贔屓偏頗在之猥敷掟ひいきへんばこれありみだりがわしきおきて、 行儀と被風聞候ふうぶんせられそうらはば、従他国手たこくよりて入者いるるものにて候、ある高僧之物語せられ候うは、主人あるじは不動、 愛染あいぜんのごとくなるべし不動之つるぎひっさげ愛染の弓をたいしたる事、 全衝まったくつくにあらず、いるにあらず、悪魔降伏之相にして、 内心慈悲深重也ないしんじひしんちょうなり如其侍之頭そのごとくさむらいのかしらをする身は、 先我行跡まずわがこうせきを正して、士卒忠臣にはしそつちゅうしんには 与賞しょうをあえ不忠反逆輩ふちゅうはんぎゃくのともがらをば退治し、 理非善悪糺決りひぜんあくきゅうけつするを、慈悲じひ之賞罰とは申候はん、 たとひ賢人、聖人之語をさとりり、諸文を学したり共、心偏屈こころへんくつにしては 不可然しかるべからずに君子不重則不威おもからざればすなわちいあらず などとあるをみて、ひとえ重計おもきばかとと心得てはあしかるべく候、重も軽きも、 時宜時節じぎじせつに寄て、其振舞可為肝要事そのふるまいかんようたるべきのと

『判決を下すにあたり、正と非は少しでも曲げてはならない、もし、公正でない判決をしたことが後に役人に聞き伝わり、 それが明白であったならば負け方と同じとがを勝者に課すべきである。 また、一般的には内輪の者に対しては慎重に扱い、他国の悪党はいかようなりとするがよい。ただし、 依怙贔屓えこひいきやみだらな掟、悪習慣が有ると他国に噂さが伝われば責めとがめられるとこと必然である。 ある高僧が言うには、あるじは不動、愛染のようでなければならない、 不動明王は剣、愛染明王は弓をもって厳つい顔をしているが、これを武器として逆らう為ではなく、弓を射り脅迫するものでない、 これは、ただ悪魔を退治させるだけのものであって、内心は非常に慈悲深いものである、主たる身の者も、 まず自分の行いを正しくして、権力を振りかざすのではなく、忠義をただす侍には褒美を与え、そうでない者は厳しくせよ。 事の正否、善悪を正しくさせるのが配下への思いやりと言うのではないか。 たとえ知識、学問などに長けていても心が偏屈であってはならない事で、論語では、【人は重厚でなければ威厳がない】というが、 重いばかりが能ではない、落ち着きがあって重みがあるのも良いが、時には軽快に動き即応しなければならない時もある。 時と場合によってその振る舞いを加減することが肝心ではないか』

被枉まげられまじく

道理をまげてはいけない

*不動明王

剣と縄を持った火炎の中に座る五大明王の一人で悪魔や欲情からでる心の迷い滅ぼす神

愛染あいぜん明王

弓を持ち三の目と六本の腕で愛により人を欲情からおきる迷いを抜け出させる神

*士卒

上級武士から下級武士まで

糺決きゅうけつ

誤りを正す

 

 

右条々、忽諸こつしょに思はれ候ては無益候むえきにそうろう入道一孤半身にゅうどういっこはんしんよりより、尽粉骨ふんこつをつくし、 不思議に国をとりしより以来このかた、 昼夜不緤目令工夫めをつながずくふうせしめ、名人之かたらいを耳に挟み、 諸卒しょそつ下知げちし、国家無恙候こっかつつがなくそうろう於子々孫々ししそんそんにおいて守此旨候このむねをまもりそうらはば、 日吉ひえ、八幡之御教おんおしえおなじく思はれ、 国をたもち候はば朝倉名字可相続そうぞくすべし末葉まつようにをゐて、 吾がままに振舞ふるまわ候者そうらわば、後悔先立まじき者也

『右の条文は充分に理解してほしい、我、孝景は骨身惜しまず目一杯努力してきた、結果なんとか国の あるじとなる事が出来た。それは、昼夜を問わずひたすら方々に目を配り創意工夫をしてきた、 また、識者から意見を聞き、それを参考に配下にも告げ、無事ここまで国を治めることが出来た。 今後も、この条文は日吉、八幡宮の教えと同じと思い末裔まつえいまでこの事を守り国を保てば朝倉の名も絶える事はなかろう。 ただ、末代に於いて条文でいましめた事を守らない身勝手な行いをするような者がいたならば、 その者はきっと後々悔いることになろう』

忽諸こっしょ

軽んじると

*入道一孤いっこ

主が目分のことを謙遜していう言葉

尽粉骨ふんこつをつくし

力の限り

不緤目めをつながず

方々目配りをする意(目を一か所につなぐ事を否定)

*諸卒

多くの配下に

下知げち

言い伝える

無恙つつがなく

無事で日を過ごすこと(恙虫つつがむしにやられないの意から)

日吉ひえ八幡

日吉、八幡社(武将の誓言で日吉八幡にかけて云々と言う)

振舞ふるまい

行動、挙動

 

朝倉弾正左衛門尉日下氏 孝景入道英林

 

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